次々と起こるスポーツ選手の不祥事。
不祥事を起こした本人の性格が弱いという個人の問題もあるが、はたしてそれだけでしょうか。
日本のスポーツ指導現場に問題はないのか?指導者に人格形成を担っているという自覚はあるのか?など日本においてスポーツに関する基本的な認識が欠如しているのではないかという疑問が湧いてきます。
スポーツは、19世紀イギリスのパブリックスクールにおいて、ゲーム活動や運動クラブを通して奨励援助され教育ソフトとして完成しました。それを国家の教育的政策として1984年に議会で報告しているのがクラレンドン委員会報告書です。
内容の一部を紹介します。
- 健康と活動力をもたらす肉体訓練が、大陸の体操運動(gymastic exercise)によってではなく、競技的ゲーム(athletic games)によって与えられている。
- それらはレクリエーションとして自発的に行われ、少年期で終わることのない激しく生命感に溢れた運動の中にレクリエーションを見出す習慣を与える。
- クリケットやフットボールのフィールドは単なる遊び場ではない、それらはいくつかの最も価値のある社会的資質を形成する場で、教室や寄宿舎と同じように、明確で重要な位置をパブリックスクール教育の中で占めている。
- 学業が主であるが、ゲームと学業は決して矛盾するものではなく、学業とゲームの両面で勤勉であることが望ましい。
- 節度ある範囲において、ゲームは勉強をし過ぎる少年たちや怠慢な少年たちを矯正するよい手段である。
産業革命後、近代国家として国民国家を樹立したイングランドでは、争いごとの解決策は暴力から話し合いで解決することが「文明化した社会に生きる市民の行動規範」だという考え方に変わった。そうした行動をとる理想的な人物像を「ジェントルマン」と呼ぶようになりました。
ジェントルマンは何よりも非暴力であることが重要です。
同じ頃、スポーツも「ルール」によって「暴力は禁止」されるようになったのです。
イングランドのこの国家戦略モデルを世界各国が真似たと言っても過言ではないでしょう。だから国民国家はスポーツを積極的に取り入れた。それが20世紀にスポーツが世界化した背景です。
国連の加盟国とIOCの加盟国が比例して増えているのは偶然ではないのです。
ジェントルマンとは「身体健吾」で「判断力」に優れ「行動する勇気」を備えており、国を愛し、ルールを尊び、暴力に訴えずに理性的に行動する人のことを指します。
これらの能力は学問を学んだだけでは身につきません。
やはり対人関係の中で実践を通じて身につけるべき「社会的能力」です。
パブリックスクールでは従来の「気晴らしとしてのスポーツをこれらの社会的な能力を身につけるソフトとして洗練していったのです。
指導者は指導現場で物事を考え判断し行動する能力を子供から奪っていないか再確認する必要があります。スポーツを通じて判断力とその実践という回路を自己の内部に構築するトレーニングを可能にさせるからです。
「社会におけるリーダーはスポーツを通して養成される」これが欧米の常識です。